先に言っておく。有意義な残業はむしろ大好きだ。
この時点で、大半の人の同意を得ることが出来ないだろうと思うが
それを言ってしまうと話が進まないので、置いておくとして。
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人が生きられる時間、ましてや「今」なんてのは
ものすごく有限で、ものすごく「今」しかないので
今「やる意味がある」ことなら、今やってしまいたい。
やることをさっさと終わらせて、残りは自分の時間にしたい、という意味でもある。
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前の職場は「残業代込」の給料だったので
残業をしなければある意味お得だったけど、
そういう環境下でも、有意義な残業があることを私は大変嬉しく思い、
残業が無い日々が続けば大変懐疑的になり、そして不満だった。
仮に、クライアントからの依頼が動いていなくても、
次の提案についてアクションを起こせば仕事は発生するはずだ。
なのに仕事が無いってことは、経営、ひいては自らの給料を稼ぐ能力が
この会社に欠落しているってことなので、懐疑心と不満を抱くわけだ。
そして案の定、業績悪化を理由にリストラされた。
また、これは過去に派遣出向した会社で感じたことなのだが
上司や社畜を納得させるためだけの、無意味な時間つぶしを
残業という形で実施する必要を迫られる場所にも、同じ危機感を抱く。
1時間で終わる仕事を3時間でやるということは、
単純に自分の仕事の価値を3分の1にしていることでしかなく
会社が稼げる能力も、そんだけ減っているはずなのだ。
#無駄な残業は光熱費などの経費にも跳ね返ってくるしね。
ましてや派遣で働いていれば、残業代はきちんと出る。
自分がやっている仕事の価値よりも、コストの方が高くなってないか?
と、ちょっとでも感じると、会社に対しては不審を抱くし
ここは自分のポテンシャルを生かし切れていない職場だ、と感じてしまう。
簡単に言うと、そういう仕事に遣り甲斐を持てないのだ。
自分が貰う給料の、最低2倍は稼げないと、会社としては赤字であるはずだ。
今自分がやっている仕事がそれに見合っているかどうかは、
私が遣り甲斐を感じるために、とても大切な要素なのだ。
だから、私はそういう会社では、まず協調性を保てない。
空いた時間を自分の時間(例えば資格を取るとか情報収集をするとか)に
当て始めてしまうからだ。付き合いもしなくなってくるしね。
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勿論、生活のためには働かなければいけないのだが、
自分がこの社会で何が出来るのか、ということの方が私には重要だ。
ぶっちゃけ、そんなこと考える必要が無ければ
必要最低限生活費を稼いで家でずーっとゲームでもしてれば良い。
が、今は良くても先々、或いは死ぬ時に
自分が生きた道を振り返って、それでよかったと本当に思えるか?
・・・と言うと、自信が無いわけである。
そしてその感覚は、恐らく宗教感 と言ってしまって差し支えが無い。
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うちは、ひーじーさんあたり(明治維新頃のご先祖)が修行僧で
かなりの地位にまで行った人だったそうで、その影響もあって
家には仏教的な何か・・・だけではなく、様々な宗教的何かが存在していた。
というのも、父は本職よりも、宗教研究の方大好き。という宗教オタクだったからだ。
何か特定の宗派や神様を重んじるのではなく、
世界中の様々な宗教を「研究」するだけしていて
宗教的な生活とは全く無縁の父であったが
悪さすると仏壇の前で正座してお経読まされたりとか、そんな感じ。
一応、宗派とかも持っていたけど、お寺にも神社にも
普通に初詣に行く程度。大変日本的な家でした。
でも、私は宗教を研究するだけで、信仰心が無い父に
ものすごく反感を持っていたんだな。
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親が私に教えたわけではなく、物心ついたころには既に
「悪いことをしたら神様に怒られる、親は見てなくても神様は見てる」
という、恐怖感?というか、自戒の心?が存在していた。
どんだけ前世で悪いことをして今の世に送り出されてきたのか、と思うぐらいに。
多分単純に、身近に信仰に厚い人がいたからだとは思う。
母方の祖父母は、特に宗教を持っていたわけではないけど
生き方そのものに、信仰心がしっかり根付いていたような人たちだった。
その影響か、母は色々な新興宗教に顔を突っ込んでいたしな。
尤も、頭を突っ込んでは、言いくるめられたり自己解釈したりで
その度に大騒ぎする母は、頭痛の種でしかなかったけど
それでも私自身、正しい信仰の理解というのは
結構長い間求めているものだったりもした
何故それを求めたかと言うと、半分は、親を説得する材料として。
正しい宗教感を持たず、私利私欲に振り回される親を
正しい理論的な何かで、きちんと説得したかったという側面。
そしてもう半分は、自分自身のため。
親の持つ自己中心的な倫理感?とは言わないか、とにかく
私を苦しめ悩ませる彼らの身勝手な考え方が染みついた自分が
楽になるため、である。
例えば、母は愚痴(他人の悪口)を聞かない私を悪人としたが、
その悪口を言うこと・聞くことは本当に正しいことなのか、等々
そういうことを判断する基準としての、理屈が欲しかったわけだ
但し、宗教や教理、神の存在は必要無かった。
そういう意味では一般的な宗教や救いを求めたのとは少し違う。
私が納得する生き方の指南が欲しかったわけだ。
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しかしそれは、神様が不要だとか、いないとか、そもそも神様って何だ。
とか、そういうことは考えていなかった、という意味でもある。
何故なら先に書いたように、常々なんとなく
それは「居る」ものだと感じていたからだ。
特に、自分には仕事の神様が守ってくれている、
という感覚は仕事を始めたころからしっかり持っていた。
そうとしか思えないほど幸運に、仕事の機会を得て
導かれているとしか思えないほどに、一つ一つの仕事に
意味を感じているからなのだが。
勿論努力もしたが、それでも自分の実力だけだとは到底思えない。
むしろ、無い実力を付けるために鍛え上げられているような感覚だった。
神様がいるかどうかはあまり大切なことではなく、ただ私は
この環境(親)から自立するために、この道を与えてもらっている、
という、感謝の思いで「仕事」を受け止めてきたのだ。
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とはいえ、自分の中の神に全く頼らずにいたわけでもない。
例えばサビ残に対する考え方などがそうだ。
周囲の人にどんなに疎まれようとも、間違えていない。と。
どんなに周囲と馴染めなくても、間違えていないと確信と信念を持てたのは、
それでも良い、次に行け と背中を押されているように感じたからであり、
そしてその感覚に従って突っ走ってきて、きちんと
良い方向へ来ることが出来たと思えるから。なんだよね。
で、そういう節目節目では、自分の中の神様って存在に
ものすごく、依存していたと思う。
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そんなわけで、簡単にまとめると
親が言う神様論は、なんてゆかタナボタ的で、都合のよい解釈に感じており
自分が信じれる、というか納得がいく宗教論(或いは倫理感)というのはないものか、
というのは、結構長い間探し求めていたものだった。とは言っても
変なものを読む・見ると大ダメージを受ける性質なので
自分からそれに手を伸ばすことはせず、
出会った人々(そして自分がこの人からなら何かが学べるかもと思った人々)から
たくさんのことを教えてもらう、という形が中心になった。
著名なものでは、例えばユングの持つ宗教感に共感を得て
彼が学んだという宗教は、入門書レベルで読んでみた。
私が持つ、いわゆる宗教の知識と言うのはその程度である けど
特に宗教があるわけでもなくとも信仰心、というものは
多分、自分の中ではかなりなウエイトを占めているようには思う
別に、だから何ってわけではないけれども
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話を最初に戻す。
時間を無駄にしたくない最大の理由。
ひとつは、死んだときに神様に顔向けできないのが怖い。
というのは、あったと思うのだ。
これだけ助けてもらっておきながら、何だおまえ。みたいになるのが嫌だなと。
とは言え、そんなしっかりした人間でもないし
体調悪くてだらだらしている時間も長いのでw
立派なもんじゃないですよ、なんか
こんなんでごめんなさい。と思う日々ではあるけど
たまに開き直ってたりもするし。
あともうひとつは、今の一生で完結すると思っていないこと。
これも、たぶん宗教感と言って良いものだと思う。
自分の中の何かが、過去からずーっとつながってきていて、
それが未来にもつながっていく、という感覚。
宗教用語で言うなら輪廻というものが、思想と言うよりは
自分の中に物心ついたころから自然に存在していた。
そうでないと説明がつかないことがたくさんあると感じていた。
故に、今も「その過程」でしかなく、
今の世に生まれた自分なりのテーマというのがきちんとあって、
そのテーマを完遂させることが、最もたる自己実現。
だと思っているからだ。
いや、別に自分でそういうこと耐えにたどり着いたわけじゃなくて
それが一番大事。ということは、師と仰ぐ人から教えてもらったことなのだけど、
そう考えるようになってからは、大分色々なものから解放された。
焦りもなくなったし、恐怖感も感じなくなった。
どんな焦りでどんな恐怖感だったかは、ここでは割愛するけど。
そういうことだけではなく、こういう考えに至るには
他にも紆余曲折というかなんというか、
とにかく色々あったのだけど、それはまた別の機会に。
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