自衛をしたい人・させたい人

コメント:

歪んでるなーと思うんですけどね。

痴漢でも何でも、被害に遭った人の中でがちがちに自衛しちゃう人ってのがいるわけです。

多分、私もそのうちの一人だとは思うが、私はこういうのは歪んでいると思うし、
見てわかるぐらいに自衛をがっちがちにしている人こそ
襲われやすいんじゃないだろうかと思ってはらはらして見ているぐらいなんだよね。

#こういう意味だけでも「間違えた自衛」ってのは明らかに存在すると思っている。
#今回の話とはまた別の話になっちゃうから書かないけど。


しかし、こういう人達に「自衛は意味ない」と言うとどうなるか。

噛み付いてくるんですね。

噛み付いてくる理由って、結局は自衛なんて意味がないってのを
認めるのが怖いからなんだと思うんだけどまあ、それはともかくとして

自衛を否定する表現では、こういう人達は心を開いてはくれない。


しかしそもそも、語られている自衛が正しいものであるなら、
こんな騒ぎにはなっていないはずなんだが

それ以上に意識を払わなければいけないことがある。


どうして自衛をしたい人は被害者の生の声、

「自衛をしていてもどうにもならないような被害に遭いました」
という告白を、無視(というかスルー)するのか。考察することが出来ないのか。

本当に自衛を考えているなら、被害者の声こそ自衛なり、再発防止なりに
役立つものだと捉えることが出来ないのは何故か。

差別だとか人権侵害だとかラベルを付けて騒ぐのは簡単だが
溝を深めたり決裂したりするだけなら、仲良しごっこと同じだろ。

それが求める世界だというなら、前記事の通り
パワーゲームですかそうですか、で終わる話なんだけどさ。


「間違えた自衛論」には問題が幾つかあるわけだが、

その最もたるは『被害者が声を上げにくい社会』という
加害者に都合が良い硬直化を起こしているところにあると思っている。

要するに、「自衛自衛言う奴らが再発防止の邪魔をしていることに
気付いていないのが問題」
なんだと思うんだよね。

気づいていない人には何言ったってわからん。それはもうどうしようもない。


どっかのブコメに「自衛しても他の人が襲われるだけ」みたいなことが
書いてあったけど、それだけじゃなくて

被害者の自衛を責める風潮のお陰で、事件が表に出て来にくくなる、
加害者が一般人に混じって平然と暮らしてる状況を作ってる。

それどころか、加害者を正当化・擁護するようなことばっかり言う。

本人にその自覚が全くないことが問題なんだよ。


てゆかこーいう人ほど犯罪者にしてみりゃカモだと思うんだけど
カモだって自覚だけはあるから余計自衛厨になっていくんじゃなかろうかと・・・



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「犯罪者が社会で一般人の振りをしてぬくぬく暮らせる世の中を
 みんなして守ってどうすんの。意味がわかんねーよ。」

ここだけ読めば、確かに意味はわからん。しかし

身近な人が犯罪者だった場合は、意外とこういう圧力が簡単に発生する。

例えば稼ぎ手である父親が犯罪者として逮捕されたらその家はどうなるか。
例えば、親戚や知人、地域の権威ある存在を犯罪者として告発した場合どうなるか。


しかしだからと言って、泣き寝入りしか道がないような社会であることは
間違えていると思うし、あってはならないことだと思う。

どのような立場の存在であっても、人権は侵害されてはならない。


ってことを、ひたすら言うしかないと思うんだよね。


しかしだな。

言葉狩りみたいになっちゃうけど

『自衛に意味はない』という表現が含むニュアンスと、
『被害者に自衛を解くことが無意味』という表現が含む意味は
明らかに、全くもって一緒ではない。

ということは容易に想像出来ると思うんだ。

『自衛に意味はない』と言ってしまうと

「ウイルスソフトを入れても意味がない」
「ホームセキュリティには意味がない」

であるとか

「発展場にそれなりの服装をして行っても手を出されることはない」
「通り魔事件が多発しているエリアに子ども一人で歩かせても大丈夫」

という話になってしまう。

『自衛に意味はない』という表現だけを拾ってしまう人は大抵こんな感じだろう。

で、こういうことを、カモ予備軍の自覚がある人達に言っても
ぎゃーぎゃー沸くだけなのは、もうどう仕様も無いと思うんだよね。


自衛がどーのこーの言う人とか、自衛したい人・させたい人ってのは
自分が被害者・加害者になるかもしれない、って危機感を
なんとなく抱いているだけの「被害者でも加害者でもない人」なのだ。


そういう人たちが言う事っていうのは

実際の加害者は、自分の欲望を満たすために巧妙に計画したり
相手の信用などを全て裏切って犯罪行為に及んでいるわけだけど

そういうのすっ飛ばして、目の前ににんじんがぶら下がった馬を想像するから
「にんじんぶら下げてる方が悪い」とか簡単に言えてしまう。


また、被害者が泣き寝入りしてしまう理由の中に、
自衛をしていなかった自分も悪かったのかもしれない・・・
という思いが少なからずあったりするぐらいなんだから

一般人がそういう考えを持ってしまうことを
「止めろ」と言うのは難しいのかもしれない。


もうね、こういう人達は「悪意」を理解出来ないんじゃないか、と思うんだよね。


でも、確かに昔の私は理解出来ませんでした。

自分が被害者になって尚、相手にも尊厳とか人権あるし。って思っていたよ。
セクハラとか嫌がらせとかに遭っても、相手にも権利あるし。って思っていたよ。

実際、そういう教育してるんだと思うよ、日本って国は。

大人たちはいじめっ子のことを「あの子の家は片親で可哀想だから・・・」とか
平気で差別的なこと言ってたよ。そういうので成り立ってたよ。

だから大人になってから、過剰に勘違いした自衛論を展開するんだよ。


社会の中で、自分の生まれた環境とか状況とか
そういうのに全責任をもって自分の命と立ち向かうような
当たり前のことを解くような教育じゃなかった。

そういう、個人主義的教育はしていなかったにも関わらず、
どうして今こんだけ個人主義的な流れが主流になっているのか

全くもってわからないけど、学校では教えていないことが
社会の主流になっているという「歪み」の中に

なんか欠落しているものがあるんだろう、とは思っている。


でまあ、そういう欠落したものを追いかけて行くと
己の道を律すること、とかいうのしか出てこないんだよね。今のところ。

そーいうストイックなのが流行らんから困るんだよね、今の世の中。

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このページは、qufeiが2009年12月29日 17:42に書いたブログ記事です。

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