私は異常に感受性が発達している。
神経が過敏なのかもしれない。
視力は悪いが、夜でも他の人よりは見えているらしい。
聴力も、人よりかなり良いらしく、
一度鼻づまりで耳がよく聞こえなくなったとき
検査をしたが、その状態で「人並み」だった。
農薬などにも大変過敏だ。
ごはんを食べるとお腹をこわすようになってしまったので
低農薬の米に変えたら治った。
但し、低農薬と書いてあってもお腹をこわすものもある。
あてにならねーな、と思っている。
いずれにせよ、なかなか生き難いのである。
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人の感情にも、過敏だ。敏感ではない。過敏なのだ。
よく言えば空気を読んでいるわけだが
相手の感情が私の中に「ない」場合は、
雰囲気だけは察するけど頭の中は「?」でいっぱいだ。
私が好奇心が旺盛で、何でもかんでも質問するのは
多分、こういうところに理由があるのだろう。
この「特技」は、障害を持った人と一緒にいるときなどは
ちょっとだけ、お役に立てることがある。
言葉でのコミュニケーションが出来ない人でも
強い感情であれば、なんとなくだけど
受け止めることが出来るのだ。
自分の言いたいことが伝わらない憤りで
暴力的になってしまう、脳に障害がある人や
聾唖の両親を持って音がない世界に育ち
話すことにまだ慣れていない友人などと
私は、コミュニケーションが取れた。
もちろん「なんとなく」の範囲でだけど、
怒っていた人が笑顔になってくれたりするわけだからさ、
そういうのは、単純に嬉しいじゃないですか。
私自身、言葉で自分を表現することが大変苦手だった。
絵で表現する方が得意で、なんでも絵に描いていた。
そーいう幼少時代を過ごした。
それは、生きていない人に対しても一緒だった。
土地に残る強い怒り
電話ボックスの前で佇む切ない感情
或いは、訪れたばかりの死に対して
どう向きあえば良いのかとおろおろする不安
そういうものが、そこに「ある」ということが
なんとなく、わかってしまうのだ
それは残留思念というものなのかもしれない
死んでいる人だとは限らない、そこにあるのは「人の念」だ。
ただ、そこに 何か感情が落ちているのが
私には、なんとなくだけどわかってしまうのだ
・・・勿論、気のせい、であってほしいけどな。
しかし私以外の人でも「そこになにかある」ってぐらいは
わかるらしいから、どーも、そうでもないらしい。
私が「祈る」という技術を身につけたのは
こういう人達になんも出来ない自分の気休めでもある
念のために言っておくが、お祓いなんて大層なことは出来ない。
静まってくださいと語りかけることは出来るが
聞いてもらえなければ、私がもっていかれる
或いは、祈り というのは保身でもあったかもしれない
「祈る」ことを知るまで、私は世界が色あせて見えた
入ってくるあらゆる感情を、遮断していたことに気がついた
他人の愚痴を聞いていられないのもそうだ
私は、自分の中に入ってくる感情に耐えられないだけなのだ
理論は武装をするためにある
そーいうのをわかって理屈で挑まねばならんとき
多分私は、大事なものを見るのを忘れているだろう
守りながらなんて何も語れないのだ
・・・強さって、大事よね。
まあ、弱っちいから弱い人のこともわかるのかもしれないけどさ・・・
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