フェミニズムというのは男女平等の話、ジェンダーというのは性差の話。
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私のいる業界では、女の方が圧倒的に強い状況をよく目にした。
直近で、前職場では控えめで自分の意見を言わない人は仕事がなくなるし、
受け身な人(特に男性)に対しては「ダメなやつ」と痛烈な批判が飛び交う。
お茶汲みは男性だったが、「花がない」と不評だったし
(でも代わりに女性がやるということは無い)
力仕事の多くは、女性が行っていた。
それぞれ、男性だから・女性だからというポジショニングではなく
単純に、それが与えられた「業務」だからやっているのである。
そういう意味では、ジェンダーフリー且つフェミニズムが実現した場所だったのだろう。
勿論、女のくせに・男のくせにとか言う人はいないのだが
それでも明らかに、男だから女だからという心を内に秘めている人はいた。
例えば(女性ばかりのポジションに)もっと男が欲しい、とかね。
で、そういうことを言うのは「男」で、私はそれがよくわからない。
男か女かより、仕事ができるかできないかで判断すれば良いのに
なぜ男がいいのか。それは多分、普段の会話を同性と楽しみたいからなんだろう。
要するに、男女の差別はしなくとも、ジェンダーフリーであろうとも
やっぱり男と女は違う面があり、同性の方が気楽に話せることもあるわけだ。
そのこと自体は、差別だとは思わない。
しかし、それを言うのが「社員の評価をする立場」の人間であることに問題がある。
出来なくても男性には甘い点数を付けがちなのだ。
では、その上司は「差別的」なのだろうか?
「ひいき」ではあると思うのだが、差別かどうかと言われると、・・・わからんです。
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昔、ある男性に「女なんだからもっと、きゃーきゃー甘えればいいのに」
と、言われたことがある。
その男性は(まあ地位も人柄もその他色々もあったので)
結構常に女の子がきゃーきゃー甘えていたのは確かで、
私はそういう女の子を見て「可愛いなあ」と和んでいる方だった。
が、その男性に(良い男ではあるが)性的な魅力は感じなかったので
なんで魅力ない男に甘えてやらねばならんのだ、と思った。
が、その男性には尊敬できる面が多々あったので、
彼の頼まれごとは快く引き受けたし、彼に質問することも良くあった。
が、それと「男性としての魅力」は別なのだ。
自分が女を見せるのは、相手に魅力を感じている時だけだ。
お前にその価値があると思うのか、と心の中で思ったが
言わない代わりに、意味わかんね、という風に首をちょっと傾げた。
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ある他部署の上司(男性)に、「男だったらよかったのに」
と、言われたことがある。
男だったらびしびし鍛えてやれるのに、という意味らしい。
女だとそれが出来ない理由は、彼の中にあったのだろう。
そして多分それは、前述の男性びいきの上司も一緒なんだろう。
遠慮しちゃうんだろうな。
そう言われることは、嬉しくもあり哀しくもあった。
その上司には、飲みの席で酌をするのはやぶさかではないと思った。
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今でも、男だから・女だからということで区別されることに
慣れたわけではない。だが、区別されることが減ったような気はする。
いや、差別をするようなやつは私のような存在を認識できず
男として扱ってくれることもあるのかもしれないが。
が、明確に差別をする人ってのはえてして
レッテルをはって生きているのは確かで
そういうレッテルでいちいち区切りを入れられるのは
確かに鬱陶しくはあり、
「この人はこういう人だ」と認識して付き合うのは大変だ。
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「大変だ」とは思うんだ。
でも、だからって自分が変に謙ったり女らしく振る舞う必要はあるだろうか?
私は、無いと思うんだが、それは間違えているのだろうか?
↓この記事を読んで、そんな気分になった。
男はフェミニストを続けうるか?
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私は料理が好きだ。
料理好きの男性と台所の取り合いになることが良くあった。
料理を女のものにしてしまうと、
料理をしたい男性が居場所なさそうにしていて
可哀そうだな、とよく思った。
私は首に障害があるので、
重い荷物を持つと1日動けなくなるので
今の旦那が荷物持ちをしてくれるのは大変助かる。
実家では、父が首を悪くしていたので
荷物持ちも大工仕事も全部母がやっていたし
世で男性がやることと言われるものは、うちでは女がやるものだった。
#但し、それに対して母は、愚痴を言うことを忘れはしなかったが。
女性だからという理由荷物を持ってもらうのは嫌だったが
自分の身体を考えると持ってもらわざるを得ないことを
今の旦那に出会ってはじめて、素直に認めることができるようになった。
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うちの旦那は、なんというか「こだわりがない」人だ。
あまりにもこだわりがなさ過ぎて、自然体過ぎて
こだわることが馬鹿らしくなる。故に、大変楽である。
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最近、過去の辛かったことや、苦しかったことを
忘れつつあることに気が付く。
以前は、忘れる事が出来ないことが辛くて仕方がなかったのに。
そしてそれは「今」苦しんでいる人の気持ちがわからなくなりつつあることと同義だ。
そのことにより「縁」の種類が変わることを、なんとなく感じている。
先に進むことが、楽しみだ。